キュビスム


キュビスム

キュビスム

ルネッサンス以降の、あるひとつの方向からの視点による遠近法を用いる手法【一点透視図法】を否定し、多方面からの視点を一つの画面に収める手法を【キュビスム】といいます。

ピカソがジョルジュ・ブラックと共に追求した画法です。

キュビスムというのはキューブから来ているのでしょうね。

しかし、立体派と訳すと理解が難しくなるようで、「立方体派」と訳すべきもののようです。

絵画というものは、見たそのものを模するならば、写真で構わないわけです。

写真技術がないときに、誰かに伝えるべき役割を持つ絵であればその域を出る必要はありませんが、絵画というものは内面の具現化です。

その表現の究極というものを常に模索していくものが「最先端」の芸術だとすれば、その時代に置いてピカソらの試みというものは、実に「最先端」であったのだと思います。

はじめは人々からの酷評に継ぐ酷評で、ピカソは首を吊るんではと危惧されるほどであったのだそうですが、それが後に一大ムーブメントを起こしていくのです。

などと難しいことを言うのですが、これでようやくですよ、ようやく私は「ピカソ」が何たるかってのを知ったのですよ。

それまではそれこそ「一大詐欺師」だと思っていましたから。

なにを表さんとして、なにを目指していたかなど、ぜんぜん絵を見ても理解できませんでした。

ちょっとした解説をしてもらうと、ようやく見方がわかる。

写真にしても絵画にしても「何が出来るのか」「限界点があるのか」ということを探求するものなのでしょうから、ちょこっとでもそのようにヒントをくれると理解の糸口が見つかるわけです。

ピカソは現存するものに対し「これが限界ではなかった」ということを発見した人だったのだと思います。

学校の美術の時間というのは、「さあ描け」といわれて、提出日までに何とか描き上げてお茶を濁すものだと受け取ってますから、それ以上なにも生徒は知ろうとしませんし、知る切欠も与えられていないのです。

そりゃね、与えられるものを口開けて待ってはいけないのですが、相手は子どもですからね、ちょっとヒント程度に渡しておいていいと思うんですよ、入り口を。

ここが入り口よと教えられておけば、興味があると自覚したときに、その扉をコンコン叩きますもん。

ピカソを見た子どもが、10人中何人すごい!という感情を抱くかと言われれば、かなり少ないのではないかと。

「これこれこういうことを目指した人なのですよ」と言われれば、興味の人数はずっと上がると思うのですよ。

もっとなぁ。。。楽しい授業してくれれば良かったのになぁと、今頃落胆するのです。

聴こえって。

病気が原因による耳鳴りとは違う耳鳴りというのがありますよね。

それとは別に、聴力の衰えをお知らせする耳鳴りというものもあります。

はっきりした耳鳴りの原因というものがそもそも判っていませんので、「どうも聴力が落ちてくるときに耳鳴りがしている」という経験に基づいた話なのですが。

無音状態に置かれると、人は耳鳴りに似た音を確認する場合が多い。

シーンという音が、無音のはずなのに聞こえている気がするという事はありませんか?

それがその音です。

ですから耳の中が無音状態になりつつあるときに、耳鳴りを聴いているのではないだろうかとも言われています。

耳鳴りが度々するようになったときは、一度聴力を測っていただいたほうがいいと思います。

聴力自体は加齢に伴い落ちてくるものですから(そうでない人も稀にいらっしゃいますが)、60才を過ぎたあたりからは耳鳴りに関わらず、定期的に測るというのが本当はいいのではないでしょうか。

音と言うものは耳で聴いているのですが、言葉を聴き取っているのは脳です。

これを弁別というのですが、聴こえが悪ったのをほっぱらかしにしておくと、この弁別能力というものを脳が忘れてしまいます。

例えば拡声器などで音を大きくすれば「音がしている」ということは確認できても、この「弁別の能力」が落ちてしまっていると、脳が言葉を忘れてしまっているので「何を言っているのか解らない」となってしまうということです。

この弁別の能力(聞き取り)というのは、一度忘れてしまうと取り戻すのは大変困難です。

聴こえが悪くなってからコミュニュケーションが出来なくなって時間が経過した人がいたとします。

この方が補聴器をつけたとします。

確かに音は聞こえるのです。

しかし、脳が聞き取りを忘れてしまっているので、全てが雑音のように聞こえてしまうのです。

いくら話しかけても、聞き取りをしてくれてない。

本人は話しかけてくれている言葉すら、雑音に聞こえてしまうのです。

それに健聴者というのは、自分に必要ある音とない音というものを脳で振り分けていますから、時計の秒針の音や外を通る車の音、風の音というものを「何の音か」と判っていますから、自分の都合の良いように振り分け、気にならないようになっています。

それが聴力が落ちてからほっぱらかしにしていた人はその能力を忘れてしまっていますから、何もかも同じ大きさで聞いてしまうということです。

それは五月蝿すぎますよね。

そなると補聴器をつけたとしても、コミュニュケーション能力を取り戻すことは、かなりの訓練をしなければならないものです。

ニュースキャスターの方が早めに補聴器をつけたりなさるのは、聞き返しや聴き逃しが出来ないからということもあるでしょうが、この能力が落ちてくることも恐怖なのだろうと思います。

ただ、補聴器ってお高いものですものね。

多くの人の意識が高まって補聴器人口が増えたなら、値段も下がるのでしょうけど。。。